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今日の歳時花~ヤエザクラ

今日の歳時花~ヤエザクラ

ヤエザクラ

ヤエザクラは八重咲きの里桜の総称で、特定の品種名ではありません。その多くは大島桜から交配された品種で、昨日のニュースでは京都仁和寺の八重桜「御室桜」の9割が長い年月をかけて桜本来の一重に先祖返りしていたことが分かりました。

桜の中ではもっとも開花時期が遅く、4月下旬から5月上旬に開花します。花色は淡紅色や白色で満開時には枝が見えなくなるほどのボリュームで花をつけます。ヤエザクラの花びらは雄蕊の変化したもので、実をつけませんが、奈良のヤエザクラは花の中に数本の雄蕊があることから数個の実をつけます。奈良県の花にもなっていて
「いにしえの奈良の都の八重桜けふ九重に匂いぬるかな」伊勢大輔
「奈良七重七堂伽藍八重桜」芭蕉
などの歌や句でも有名なことから、奈良を連想する花と言えます。
おもくるしいほど華麗なその姿は牡丹を思わせることから牡丹桜とも呼ばれています。

参考資料:新歳時記 平井照敏編
美しい季語の花 金子兜太監修
ヤエザクラ「フゲンゾウ」写真:wikipediaより

富安 風生(とみやす ふうせい、1885年(明治18年)4月16日 - 1979年(昭和54年)2月22日)は、日本の官僚、俳人。愛知県八名郡金沢村(現在の豊川市金沢町辺り)生まれ。豊橋町立豊橋尋常中学時習館、第一高等学校、東京帝国大学法科大学卒業。卒業後は逓信省に入り、のち逓信次官。

俳句をはじめたのは遅く、1918年、34歳のとき福岡貯金支局に支局長として赴任した時期に吉岡禅寺洞の手引きを受けたことに始まる。翌年より高浜虚子に師事し、『ホトトギス』同人、また東大俳句会に参加した。『破魔弓』が1928年(昭和3年)7月号から改題により『馬酔木』となった際には、水原秋桜子らとともに同人のひとりであった[1]。1928年(昭和3年)、逓信省内の俳句雑誌「若葉」の選者となり、のちにこれを自身の主宰誌とした。1936年(昭和11年)、逓信次官の職を辞して官界を引退、「句作三昧の生活」に入る。戦後は電波監理委員会委員長を務めた。1971年(昭和46年)、日本芸術院賞受賞、日本芸術院会員となる。
出典:wikipedia

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