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トマトのお話

トマトのお話

イタリアントマト

先日、めずらしくイタリアのトマトが食卓にのぼりました。イタリアはトマトの種類が非常に多く、その語源になった「黄色いトマト」やこぶりの「Pomino(ポミーノ)」種、おそらく日本で一番知られている「San Marzano(サン・マルツァーノ)」種など多数ありますが、我が家の食卓にのぼったのはこのサン・マルツァーノを品種改良したものではないかと推測していますが、水分が少なめで味が濃くサラダはもちろん、パスタのソースにも相性抜群です。しかし意外な事にこのサン・マルツァーノ種はあまりイタリアでは栽培されていないようです。イタリア=トマトと思いがちですが、トマトが料理に使われるようになってからまだ200年と歴史が浅いせいか、トマトを料理に使わない地域もあるそうです。

さてこのトマト、イタリア語では「Pomodoro(ポモドーロ)」。語源は古いイタリア語の「Pomo(リンゴ)」と「d'oro(黄金の)」からだと言われています。トマトに関する世界最古の文献はイタリアの植物学者であるマッティオーリが1554年に改訂版として出版した「博物誌」の中に初めてその名前が記載されています。それによると、「熟すると黄色になるものと赤くなるもの」と書かれていますから、彼が最初に目にしたトマトは黄色やオレンジの種類だったことからそう呼んだのかもしれません。また、Pomoのリンゴはフランス語でトマトのことを「ポム・ダムール(愛のリンゴ)」イギリスでは「ラブ・アップル(愛のリンゴ)」と呼ぶことと共通しています。これは昔からヨーロッパでは値打ちの高い果物や野菜を「リンゴ」と呼ぶ習慣があったことからのようです。このように、ヨーロッパ各国でも呼び名が違う「トマト」ですが、では、いったい「トマト」の語源はどこからきているのでしょうか?

トマトの語源を探る前に、トマトの原産地はどこなのか調べてみると、もっとも有力な説は、南米ペルーを中心としたアンデス高原の太平洋側だそうです。さんさんと注ぐ太陽の光と、湿度が低いカラリとした気候、高地特有の寒暖差がある温度、そして水はけのよい土壌...。こうした環境の中で生まれたトマトの原種は、植物学者たちの研究でアンデス高原には8から9種の野生種トマトが自生している事が分かりました。その形は現在のミニトマトに近いもので、たくさんの実をつけたチェリータイプだったそうです。

トマティーヨ

そして、この野生種のトマトが人間や鳥によってメキシコに運ばれ、食用として栽培されたと考えられています。「トマト」の名はこのメキシコはベラクルス地方のアステカ人が「トマトゥル(膨らむ果実)」と呼んだことが始まりとされていて、「トマトゥル」は本来「ホオズキ」を指していますが、メキシコではホオズキを煮込んで料理に使ったことから、形が良く似た「トマト」もこの名で呼ばれたようです。今でも、トマティーヨと呼ばれるナス科の植物、和名でオオブドウホオズキはメキシコ料理に欠かせません。wikipedia~トマティーヨ

アンデスからメキシコへ旅したトマトは、コロンブスによる新大陸発見以降、16世紀は大航海時代にスペイン人の手によってヨーロッパへと運ばれます。当初、ヨーロッパの人々は、トマトを有毒植物と考え200年の間食卓に上ることはありませんでした。一説によるとヨーロッパで初めてトマトを食用として栽培したイタリア人は飢餓によりしかたなく食べたと言われています。

西洋料理通

トマトが日本に伝来したのは、17世紀半ばです。徳川家綱のおかかえ絵師である、狩野探幽が「唐なすび」と呼び、1668年に描いています。文献で最も古いものは貝原益軒の「大和本草」で、「唐がき」と紹介されています。最初はヨーロッパ同様、観賞用として珍重されていましたが、明治以降、「西洋道中膝栗毛」で知られる仮名垣魯文が、横浜の在留英国人が使用人に料理を作らせるために書いた「手澤帖」(てびかえ)2冊を参考に記したという「西洋料理通」の第百等に、シチュードトマース、蒸し赤ナス製法と称して、トマトの調理法を紹介しています。赤ナスを細かく切って蒸し鍋にいれ、塩、コショウを散らし静かに煮ること20分、酢をいれてさらに5分煮ると記されています。この文献が日本のトマト食用利用第1号と考えられているそうです。調理法を読んでみると、なにやらケチャップの原型のような印象ですね。
早稲田大学図書館~西洋料理通
トマトを日本で初めて栽培した人物は横浜は子安村の堤春吉という人で1866年頃アメリカからセロリ、ラディッシュ、タマネギなど西洋野菜の種を取り寄せてたのが始まりです。その後1896年、清水與助という人がトマト栽培のかたわら、トマトケチャップの製造法を学び、日本初のトマトケチャップを開発し、トマトケチャップ製造会社清水屋を興し、製造販売を始めました。

こうして1911年頃には子安西洋野菜作付面積は50ha近くまでなりましたが、大正初期から子安付近の埋め立てが進み、西洋野菜で栄えた村も京浜工業地帯へと変わっていきます。
とはいえ、横浜開港から明治にかけて、子安村の人々の努力は西洋野菜栽培が、横浜市近郊から全国へ広がる基礎となりました。今日、おいしいトマトが食べられるのも、このようにたくさんの人々の手によって積み重ねられてきた、長い歴史があってこそなんですね。

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