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太田先生の想い出~浅野ひさよ先生トークイベント

太田先生の想い出~浅野ひさよ先生トークイベント

トークイベント

さる、3月23日、牧野記念庭園にて開催されている企画展
牧野富太郎に憧れた植物画家 太田洋愛
にて行われた、ボタニカル・アーティスト、浅野ひさよ先生
のトークイベントに行ってまいりました。
太田先生の最初の弟子でいらっしゃる浅野先生のお話は、師匠である太田先生への敬愛の念があふれ、心あたたまる素敵なトークイベントでした。編集部では、浅野先生のお話を聞けなかった方へ、そのお話を書きおこし、お届け致します。

浅野ひさよ
お茶の水女子大学理学部生物学科卒。卒業後、
日本ボタニカルアート協会設立委員の故太田洋愛氏に師事。
日本ボタニカルアート協会代表。

こんにちは
浅野ひさよと申します。
今日はこんなにたくさんいらしゃると思わなかったもので
なれないことではありますが、
最後までちゃんとお話し出来るかどうか
しかしまあ、色いろあの古い事で、皆さんがご存じでないことも少しはあるかと思い、懐かしいことなどお話させて頂ければと思います。よろしくお願い致します。

満州での出会い

太田先生の年表のようなものは展示場の方にございました、
それでもう、そういうことは皆さん色々よく御存じと思いますけど、ちょっと私が気に留めたというか、そうかあと感心したことなどちょっといくつかお話致します。

太田先生はお若いときに、満州の奉天の方へいらっしゃっているんですね。そこで有名な大賀一郎先生と出会ったと。

出会うところもなかなかドラマチックなんですけれども、どうして大賀先生のところで植物画を学ぶことになったかというというところを、たまたまちょっと昔の本を読んでおりましたら、くわしく書いてありましてね、私は先生から直接聞いたことはなくて、とてもびっくりしたんですけども

ヒマの種子

それは、大賀先生が「明日自分の教室に来なさい」とおっしゃったので学校へ行きますと教室の片隅に解剖顕微鏡とそれから鉛筆、あと小さな種子が5粒ぐらいおいてあったそうです。
それがヒマの種子だったそうですけどね、わたしもすぐにはわからないんですけどね、表面にきれいな、種子っていうのはいろいろな模様があるんですよね。それがまあ、独特なんですけれども、普通の虫メガネではなかなか見えませんけどその解剖顕微鏡でみると大変に色々な世界があって面白いんですが、まあそれをとにかく好きなように描いてごらんと言って先生は行っちゃたんだそうです。
そして半日、どう描いて良いか分からないし、たまたまそのお部屋に他の何人か学生さんがいらしたので、必死でその方達にどうしたら良いのでしょうかと聞いて、いろいろ教えてもらって、で、とにかく午前中かかって描き上げたんだそうです。
それで午後になって大賀先生がいらしゃってそれをじ~っとこう見て「これはものになるね」っておっしゃったんだそうです。(会場笑い)
それで、採用になったということらしいんですけども、たまたま、大賀先生が色々な植物図鑑を出すことをちょっと計画していらしてその絵描きを探していたところだったそうなんですね。そこへタイミングよく、太田先生がそこにいらして、見事合格したということで大賀先生のもとで学術画を描くということを始められたそうです。でその、ヒマの種子を描いたのが、後でおしゃっていましたけど「植物画を意識して接した最初の絵です」というふうにおしゃってます。
ですから、まあ、それまではいろんな油絵とかが好きで描かれていたんでしょうけどあの、やっぱりそういう、出発点の絵でね、先生も忘れられない植物なのだろうと思います。

でその時にですね、牧野先生を間接的に紹介されると年表の方に書いてあるんですけど、
私はそこはどういう経緯でその、牧野先生とのね、つながりが出来たのかなあと、思ってましたらやはり、古いものを見ましたらそれが書いてありまして、大賀先生という方は植物整理の先生なんですね。で、当時、いわゆる植物形態学の先生方は皆さんなかなか絵がおじょうずなんですね、植物の先生。そこそこご自分でお描きになる。ただ大賀先生は植物整理だったものですからあんまり絵は得意でなかったらしいんです。「僕は絵の方は専門じゃないからよくわからないけれど私の友達でとても絵が上手な人がいる、その人に聞いてあげるから、いろいろ習ってごらん」とおっしゃって、それで紹介してくださったのが牧野先生だったそうです。

私もそこは先生に直接伺えていないんでとても残念なんですけど、まあ、そういうご縁があって、でいろんなところへ書いてありますけれど、直接、一度も牧野先生にはお目にかからなかったけれども、色々な材料を紹介されたり、それから何よりも「植物画というのはとても大変な苦労も多い仕事だけれどもとても意義のあるお仕事なので頑張りなさい」と言ってくださったという、それに励まされてずっと描いてきたと、それは色々なところへ書いていらっしゃいます。
まあ、そんなことで牧野先生との出会いというか、あのつながりがそういうことだったのかと私もいろいろ古いものを読んだことで改めて知りました。

ソ連抑留時代

終戦の時に太田先生はソ連軍の捕虜になるんですよね。その辺の話は色々とね、ご自分のエッセイに書かれているんですけれども、なんか、内地の方に連れていかれて、炭鉱でとても重労働させられたと。ただ、そこでとても慰められたのが、なんか、こう高原のところだったらしいんですけどね、その最後の炭鉱が。春になるとかわいい野草がたくさん咲くんだそうです。時間を見つけては自分でメモのようにして描いてとても慰められたと、それは直接お話し聞いたことがあります。
どんなに大変だったかはあまりお聞きしたことがなかったんですけれどもね、きっと大変だったんだろうと思います。

最終的にはお元気で日本へ戻ってこられまして、で、あの日本で当時は普通の絵を描いて、生計をたてていくのは大変だったそうなんですけれども、次々に新しい教科書とか図鑑とかが出されるそういう時期になりましたので、でまあ、その図鑑の絵などを依頼されて、だんだんに植物画の方へ比重を移すようになられたというふうに聞いてます。
あの、先生は油絵が出身、最初はね油絵でいらしたので、油絵に対する思いもすごく強くて、あの、ソ連にいらっしゃるときも、「絵描きなのかい?」と言われて、ソ連の方の肖像画というんでしょうか、そういうのを描いて、とても喜ばれて、少し食べ物をもらって皆さんで分けてとてもうれしかったような、そんな事も聞いてまして、やっぱり絵を描くということから本当に離れられなかった、お好きだったんだなあというふうに思います。

ボタニカル・アート協会設立のいきさつ

そういうことで日本で画業を始められたんですけれども、最初はですね、ボタニカルアートなんてものがあるわけではなくて、このボタニカルアート協会というのがどういう経緯で出来上がったかというのもちょっと私も途中からですけど、聞いておりますので、その辺も次にお話したいと思います。

一番最初はですね、先生は書いてらして、そういう教科書とかの欄とかの絵を描くお仲間がたくさんいらっしゃったわけです。そういう方たちとご一緒にやはり、ひとつの団体というかグループを作られまして、それが、え~っと最初は山林美術協会と伺いましたが、次に理科美術協会という、本当に図鑑等の挿画を専門に描く方々の団体となりまして、そういうものの中に先生も所属されていらしたそうです。このころはですね、本当に絵と言ってもいわゆる学術画ですよね、とっても厳しい監修の先生がいらっしゃるわけです。勝手に描けるわけではなくてね、そういう先生が最終的にはチェックをされまして、没になるとどんどん戻ってきて、また直して持って行ってというそういう事だったらしいんですけれども、締め切りが近くなると、お仲間同士で宿に缶詰にされましてね、逃げないように皆まとめて缶詰になって、(会場笑い)それでその直しが戻ってくるのを皆して一生懸命に直したと、そんなお話を聞いています。

その時にそれは植物の先生ではなかったんですけれども、動物か昆虫の先生か、やはりその戻しがね、偉い先生から戻しがきて「直してください」と来たんですが、それはもう「こうなってたんです」とまた戻したら「あなたがそういうなら仕方ない」と。その先生がとても立派な先生だったからだったんだと思いますが、その仲間の方が「さすが」だっと言ったというふうに聞いてます。

当時は監修して下さる、学者の先生の方が絶対ですんでね、画工が、それぞれの画工方の意見とか「こうなってました」なんてあんまり言っても聞いてもらえなかったと思うんですけれど、やっぱりそういうところが少しづつ先生方が頑張ってこられたおかげだなあと思います。

そういうとても、厳しい先生方に鍛えられながら学術画を描いてらしたんですけれども、その学術画そのものが本当に子どもたちのための絵というのは大事なものだから決して手抜きをしてはいけないという、そういう気持ちが皆さん共通だったそうで、素晴らしい先生方が一所懸命い描かれたそうなんですけれどもね、あるときぐらいから、おもに植物の先生だったそうなんですけれども、もうちょっと、やっぱり芸術的なね、そういうものに比重をちょっとおいて、花の香りがするような、芸術的な要素をプラスしたような、そいうい絵も描きたいと、で、それを見てもらえればというようなね、それぞれの中に想いがおこったようで、植物専門の方々が何名かでその理科美術協会から、独立するというか円満退会と聞いておりますけれども、抜けて、そして作ったのが日本ボタニカルアート協会なんですね。

写真をみながら

ちょっと遠いんですけどね
後でまたご覧くださいね。
これは第12回なんです、ボタニカルアート展のね
実は、私が小原雅子先生という方といっしょに同期入会なんですけれども、入れて頂いたのが10回展の記念展の時でした。
で、そのとき入れて頂いて、これは12回の時なんですけどね
他の4先生が本当にお元気でそろっている写真ってわりに少ないんですよね。まだ佐藤先生も毛がふさふさで(会場笑い)で、一番高齢が二口先生だったんですけれどもね、ご高齢でしたけれども、背筋がピンとしてらして、とってもダンディーな先生でした、そして太田先生、佐藤先生、藤島先生という方で、藤島先生と言う方は小原先生の師匠にあたる方なんですけれどもね、日本画の方の世界からいらっしゃった方で、やはり植物画は学術画であると、ボタニカルアートというのはそれにもっと精神性をプラスしたもの、それを加味しながら描いていかないといけない。そういうふうにとても主張、思いを強くされてた方だと聞いています。
もちろん、太田先生や二口先生がたもそういうことに賛同して
ごいっしょにやっていらしたと思います。

こちらは太田先生のとても良い写真、私の写真なんですけども、とても大事にしております。すごく大きいアツモリソウの絵を描かれたときに、もうわりと晩年ですけれども、素晴らしい大作を描かれたときです。

あとでまたどうぞご覧ください。

太田先生との出会い

そんなわけで、ボタニカルアート協会が出来上がったわけなんですけれど経緯はちょっとお話させて頂きましたけど、次に私が先生と出会ったこともすこしお話させて頂きたいと思うんですけれども

私はさきほど紹介して頂いたように、植物の勉強をしておりまして、私の先生が卒論で
ついた先生が二口先生、太田先生ととても懇意でらしたんですよね、たまたまなんですけれど
ボタニカルアート展の第1回展が私が卒業するときにありまして、その卒論についていた学生を
3名ばかりいたんですけれど、いっしょにひきつれて小田急に見に連れていってくれたんです。
その時初めてそういう絵があると知ったんですけれども、すごく感動しましてね、
なんであんなに感激したのかよくわからないですけど、それで感激してわたしもあれ
やってみたいですと、本当に今、思うとはずかしいぐらいずうずうしいんですけれども
ここまで続けてやってこれるとは思わなかったんですけれども、ぜひやってみたいと
思いまして、たまたまそいうい関係にあったものですから、たまたま家が近かったんですね
私は三鷹に住んでいて、太田先生が国立にお住まいだったので、まあ近いから良いんじゃないかということで紹介して頂いて、いったんですけれども、最初は私は弟子はとりませんと断られましてね
何でかというと、ずいぶんお弟子さんが次々いらしたんだそうです。でも続いた人が一人もいなかったと(会場笑い)もういいと、言うような、それは奥様から聞いたんですけれど、でもう太田は弟子はとりませんと断らてしまったんですけど、まあ、植物の先生の紹介なので仕方ないということで、少し自分で描いたら絵を持ってきなさいと、それを見てあげることはしてあげようと、
いうことでね、まあなんとかつないで始まったわけです。

そのころはいわゆるボタニカルアートの教室なんてとんでもなくてね、それからまだまだ7,8年ぐらいあとなんですけどね、横浜の朝日カルチャーが一番最初のお教室なんですけどね、あそこはとても古いんですよね。まあ、そんなわけで、一番最初に行って、とにかくどう描いたら良いんでしょう?うかがったらまず、実物大に描きなさいと。それをとにかく耳が痛くなるほど言われまして、であとはとにかく描いてきなさいと、で2、3枚描いて持っていったら、あの、まあまあ一応合格だったんでしょうか、とにかくこれで良いからこのままで勉強しなさいという、それでずっと続いたんです。

太田先生からどんなふうに教えられたかというと、そういうわけで、これで良いから描いていらっしゃいというそういう教え方なんでね、なんとも申し上げるのも難しいのですけれども、一番言われましたのがですね、細かく描けば良いってもんじゃないよと、花の命を描いて下さいと言われたんですよね、それが本当に私にずっと残っている言葉で、ただどうすれば良いのか分からないですけどね
花の命を描くというのは具体的にはどうすればわからないけど、それが先生の目指したものなんだなあというふうに、今でも思って、それを一応は目標に描いています。

それから、先生の所へ行って、やはり何の絵だったか忘れましたけど、どうもうまくいかなくて、
ここのところがどうもうまく描けないのでどうしたら良いでしょうって聞きましたら、
食い下がって下さい。とおっしゃったんですね。そういう一言でした。はい。
だけど、やっぱり、諦めずに良く見ると、描きなさいと、そういうことに尽きるんでしょうね。
とにかく命を描いて下さい。食い下がって下さいと。それだけを教えと思って描いてまいりました。

以上、
お話:浅野ひさよ先生
聞き取り構成:編集部

アトリエ記事

アトリエ

ある植物画の記録
武藤ひさよさんの植物画への道

数年前から私のところに、絵を見てくれと云って来るようになった,植物画の勉強をしている人の作品を、制作年代順にここに掲げてみることにしました。
これから新しく植物画を描きはじめてみようと思われる人に、よい参考になると思います。

高校時代に描いたスイセンの絵は、いわゆる花の写生ですが、一生懸命に描いていることがよくわかります。
お茶ノ水大学で植物学を勉強するようになってから、少しずつ植物学的なものの見方をするようになってきます。

学校を卒業してから、私のところに来るようになって、私の植物画に対する僅かな注意を話すだけでですが、見違えるほどに上達していく過程がよくおわかり頂けると思います。

途中からニュートンの水彩絵の具の使用をすすめてからは、一層深みも増し、花も葉も的確に
美しく表現できるようになりました。この人の生来の植物好きであることが植物画への上達の
最大の要因であり、大学で学んだ植物学的知識が、植物画を描く上での大きな基礎になって
いることも確かです。

1974 8 アトリエ 植物画の描き方 太田洋愛 より抜粋

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